爆音収穫祭で見ると、この映画はもの凄くシンプルな映画として見ることができる。
それは単純明快で、マーヴェリックスという何十年に1度あるかという10m強のもの凄い波があり――こう聞いて想像する何倍も凄い――、その波に乗りたいという若者がいる。事をシンプルにすればそれだけのことでしかない。
そう考えると、この映画の掛け金はどこに置かれるか。それは、ひとつには誰が見ても驚く程に、波がとにかく凄いものであるということである。そして、もうひとつは、その波に男が乗ることができるということを証明することである。
その波は男たちの人生を惹き寄せるのだが、それだけの力があることを明らかにするほど、力強い。真上から襲いかかってくるのではないかというような轟音と圧力、ひとつひとつのしぶきの粒子に包み込まれているような感覚となる。やはり、この波をどこまで伝えることができるかにこの映画は賭けられたのではないか。海の上から、海中から、空の上から、陸の上から。波とそれに挑戦し乗りこなす男たち。それだけでドラマが立ち上がる。
そして、そこには波に向かう若者の鍛錬があり、男を見守るサーファーたちの姿があり、家族や友人といった青春期特有の問題がある。この映画が実際に存在した人物を主人公としていることで、エピソードはいくらでも広がる。しかし、そういった複雑な事象からシンプルに物事を取り出し、力強い物語にすることに関してはカーティス・ハンソンはやはり上手なのである。
渡辺進也
この映画の最初の台詞。綾瀬はるかが口にする、ずっとあなたと暮らしていたような気がする、といったような言葉だったろうか。その台詞がずいぶんと遠くから聞こえる声のような気がした。
初見ではない。はじめて見たときは、途中で見ているこちらが次々と不安が増していくところがあって、よくわからないと混乱するところがあった。今回、そうした不安の所在が少し分かったような気がする。
それは、見ているこちらが勝手にそう思い込んでいたことがあっさりと裏切られるということなのではないかと思う。
観客は、この映画に置ける現実の世界と思われたところが「センシング」の世界であったとされた時、足下に揺さぶりがかけられる。それはミスリーディングを誘導するようにするように作られているわけで、それ自体は珍しいことではないのだけど、ただそれが不安を感じさせるのは、間違った方向に誘導されたとして、それに対する正しい方向というものがほとんど提示されないからではないか。
改めて見てみると、はじめて見た時以上にすべてが現実性に欠けるように思えてしまう。例えば、ペンが空中に浮かびクルクルと回転を始めること、部屋の中が水で満たされていること、建物の周囲を靄が包み込んでいること、腐食した死体が目の前に突然現れること。 そして、この環境で見ると、音に関しても相当に手を加えていることがわかる。台詞の響き方、主な舞台となる部屋の中の限られた音、など。
もちろんそれらは「センシング」という彼/彼女の意識の中の出来事ということなのであると言われてしまえばその通りなのだが、そうした事象は現実の世界と大して変わらない場所で行われているのであって、そこに違いはあるのかと言われれば説明するのは難しい。というよりも、「センシング」の外の世界が、この映画では病院のシーンなどわずかしか描かれていない。しかも、それは「センシング」で描かれた世界とほぼ違わない。
もちろんそれがそういうものなのだという映画なのであれば何の問題はないのである。近未来映画にそういうことを求めても仕方がない。ただこの映画には、彼と彼女が戻る現実らしきものがあるのだと思う。そして、それを私たちは、彼の意識の中でしか見ることができない。
つまり、こちらが見ている場所が絶えず崩れかける可能性を持ち、安心できない場所へと反転する危険性を常に持っているのだと思う。
渡辺進也
見に行ってないのでレポートでもなんでもないのだが、書きそびれていたことがあったのでここで書いておく。 黒沢清の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』という映画が2013年にあったのは私にとって象徴的な出来事で、今年映画を見るおりにふれ、たびたびその存在を考えさせられる。
たとえば、昨日までアンスティチュフランセ東京で開催されていたアブデラティフ・ケシシュの特集上映。彼の映画を見た誰もが口にするのは、その会話の自然さや生々しさといったことだろう。だがその実現に必要なのが、いわゆる一般的に「自然な」撮影方法とはかけ離れたものだということは、映画をよく見たり、監督の言葉を少しでも聞いたりすればすぐわかる。だがケシシュの「自然さ」(より正確に監督自身の言葉を用いれば「スクリーン上の真実」)によって私が考えさせられるのは、昨今の新作映画の多くがいかに安易な自然主義によりかかっているかということだ。ここでいう安易な自然主義とは美学的な装飾のことではなく、要するに映画のなかの「リアル」を生み出す根拠を映画の外の世界から無意識に借りてきているような作品があまりに多いということ。多くのフランス映画、多くの日本映画、あまつさえ少なくないアメリカ映画にさえ、そう言える。だが、当然のように映画にとっての「リアル」とは、外の世界がどうなっているかということによって損なわれることはありこそすれ、全面的にそれだけで保証されるようなものではない。映画の「リアル」は、自然に見えることでも、もっともらしいことでも、蓋然性が高いと感じることでもない。
完全なる首長竜のほうの『リアル』に話を戻すと、この作品内にはどれが現実なのかわからない複数の世界のレイヤーが登場する。いやもちろん、ストーリーの上ではこれが現実であるという世界は存在しているのだが、いつまたそれが反転してしまうかという不安なしに映画を見終えることなどできないし、もしかすると昏睡者の意識のなかの夢という、いちばんリアルじゃなさそうな世界の光景こそが現実なのではないか、などと深読みしたくもなる。だがこの文章で言いたいのは、いくつもあるレイヤーのどれが「よりリアル」であるかなどという話ではなくて、そのように相対化することのできないものこそ、映画の「リアル」だろうということなのだ。
それはつまり、この作品のラストに置かれた綾瀬はるかのダッシュなのである。ブーツとひらひらしたスカートという、とても走りやすそうとは言えない格好で、彼女は海辺にそそり立つフェンスめがけて疾走する。そしてそれは本当に速い。無論、綾瀬はるかという実在の人物が100m何秒で走れるとか、彼女が昔なんのスポーツをやっていたかなどということとはまったく関係がない。カットとカット、シーンとシーンの積み重ねの上でしか獲得できないものこそが「リアル」なのだ。ともすれば手のひらからこぼれ落ちて行きそうになるものをつかみとる速度、瞬きの合間に見失いそうになるものを離さない速度。それが綾瀬はるかのダッシュにはあって、それだけで感動する。これこそこの作品が当初の予定の『アンリアル』ではなく、『リアル』というタイトルでなければいけないことへの偉大なる証明となっている。
そして『リアル』と同年につくられた、青山真治の『共喰い』を私が支持する理由もまさにここにある。『Helpless』とほぼ同じ地域を舞台とし、同じ時代を背景としたこの作品だが、そのふたつの「昭和の最後」の光景は天と地ほどの違いがある。『共喰い』が、検証可能なデータで裏付けることができるようなディテールをほとんど放棄し、「フラットな日本人そのものの視点」(『共喰い』インタビュー参照のこと)を導入したことは、青山真治個人の演出の変化という問題にとどまらない。彼もまた「リアル」とは外部からの裏付けや保証によってではなく、スクリーンの上でその都度つくりだされねばならないものだと考えているはずだ。
黒沢、青山両監督の2013年の新作は、原作つきの映画でなければ製作できないような現代日本映画の状況への身のふるまいを単に示しただけのものではない。そんなちっぽけな問題をこえて、世界中のあらゆる現代映画がさけてとおることのできない「世界の認識」に対しての高らかな態度表明だととらえるべきだ。
結城秀勇
「週刊金曜日」964号に掲載された廣瀬純の「闘争はその継続を爆音でささやく」というテクストは、マイケル・チミノと樋口泰人が、「映画は同一の映像・音声を共有する体験ではない」という点において重なり合う存在であると論じる。「作品を爆音で上映することで樋口が『聞こえる』と言い張る記号を無理やり聞こえるものにしようとする発狂した試み」としての「爆音上映」とは、私たちがすでに「見た」と信じていたものを、実はそうではんかったのだと、ほとんど暴力的に私たちに気づかせようとする批評的実践である。「爆音収穫祭」というタイトルを誤解してはならないのは、これが決して「収穫されたもの」を愛でるための品評会ではないということだ。収穫しなければならないのはほかならぬ私たち観客である。
ということで、先週土曜から吉祥寺バウスシアターにて開催中の爆音収穫祭について、これから断続的にレポートをお送りしたい。 本来ならばこけら落としの爆音『スプリング・ブレイカーズ』から参加したかったところだが、初日はどうしても都合つかず。ということで私の収穫祭は27日(日)の『ポール・マッカートニー&ウィングス ロックショウ』からスタート。ポール・マッカートニー&ウィングスの1976年のアメリカ・ツアーを撮影したライヴ・フィルム。兎にも角にもバキバキなポールのベースラインに身も心も委ねてしまえばよいというものだが、このフィルムのポール・マッカートニーは、その複雑な曲調に併せ、様々な時代における「ポール」の瞬間的なイメージを楽曲毎、フレーズ毎に創出しているように思えた。それはポールひとりのものによるというよりは、デニー・レイン、ジミー・マッカロクのサイケなふたりとの関係においてこそ構築されたものだったように思える。この作品に参加しているキャメラマンはエンドロールによれば14、5人だったように記憶しているけれども、要するにこのライヴのキャメラ・アングルはほぼ15種類前後しか存在していない。しかしまるでそうは見えない。というのも、ポール、デニー、ジミーの頻繁なパートチェンジが、ステージ上に視覚的な流動性を導入しているからだ。 レフティのポールと、デニー、ジミーの3人がステージ中央で正面を向いて演奏するとき、上手のポールと下手のデニー、ジミーの姿は、ちょうどステージの真ん中を境に鏡写しのような位置関係にある。年齢の離れた彼らの顔が、一種の分身的なものをステージ上に断片的に織り成しつつ、しかし突然プツッと切り離されるような感覚があると言えばよいだろうか。ポールがステージのやや隔離された場所でピアノを弾いているとき、ふとステージを見るとそこにもポールがいるような錯覚……とまで言ってしまうと極端かもしれないが、このステージの上にはそんなことも実現させてしまえるような不思議な時間感覚があった。
食事を獲ってなかったのでチョコチップ&バナナの爆音マフィン(180円)をつまみ、続けてウェス・アンダーソンの『ムーンライズ・キングダム』へ。 冒頭、レコードプレイヤーから流れるベンジャミン・ブリテンの管弦楽のこもった音色が、少女が窓を開けるアクションに合わせて一気にヴォリュームを解放する瞬間に、『ムーンライズ・キングダム』はこれこそが適正なヴォリュ−ムなのだと確信。
昔宮沢章夫さんが、いわゆる「箱庭療法」の本についての文章を書いていたことを思い出す。患者であるひとりの少女のエピソードで、彼女は箱庭に人形たちを横にして並べていた。普通は人形たちを立てて配置するものだというのに、わざわざ人形を横に寝かせることを療法士たちは不思議がっていたとのことだが、少女は最後にそこに水を流し入れたという。するとその水によって箱庭の中に寝かされた人形たちがスックと立ち上がった。たしかそんな内容だったように覚えているが、『ムーンライズ・キングダム』の鉄砲水は、まさしく再生を呼び起こすための流れだ。きわめて理知的に構築され制御されたウェス世界の時空に流れ込むあの濁流は、そして雷鳴は、登場人物たちを押し流し焼き尽くすためのものではなく、絶望した彼らを再び大地に立ち上がらせるためのものなのだ。徹底してコンセプチュアルにつくりあげられた世界に吹き込まれる決定的な息吹、それがあの濁流であり、そしてこの濁流はこのヴォリュームがなければ決して立ち上がりはしないものだと知る。
ところで終盤、少年たちが向かうレバノン島の、そのほんの少し南西に、「シュトックハウゼン島」という場所があったことに気付いた。『ムーンライズ・キングダム』は、ひょっとするとウェス・アンダーソンによる「少年の歌」に限りなく近いところに位置する何かなのではないか…という妄想もありうるだろうか。シュトックハウゼンによって徹底的に構築された世界に、ばらばらに切刻まれながら響かされた少年たちの歌声のように、あの鉄砲水と雷鳴は残酷さとともにどこかスウィートな響きのようにも聴こえてくる……のかもしれない。
田中竜輔
ジュリアン・ファロー『オリンピア52についての新しい視点』。クリス・マルケル特集がほとんど見れなかったからせめてと思い見にいくが、期待を上回る出来だった。マルケル自身の手によってフィルモグラフィから消された処女長編『オリンピア52』。ヘルシンキオリンピックの記録映画であるその作品の痕跡を追い、そこに新たな視点を提示する。
まず登場する『オリンピア52』の抜粋自体がめちゃめちゃおもしろい。なんといってもエミール・ザトペックの年だから。そして製作過程を巡る事実を再構成していく若き監督たちの手ぶりの中に、クリス・マルケルの息吹がしっかりと息づいていること。とりわけ感動したのは、1928年のアムステルダムオリンピックでフランスにマラソンでは初の金メダルをもたらしながら、52年現在は人々から忘れ去られルノーの工場でひっそりと働いていたブエラ・エル=ワフィのインタビューをカットしろと言われたのに対してかたくなに抵抗したというところ。正確な表現は忘れたが、「貧しさをカットしろ」というような意味のことを言われたことが、若きマルケルたちのその後の撮影方針を決定づけたという。運動の祭典の中で発見された貧しさをこそ、カットせずに残すこと。7年後の東京オリンピックに対して必要なのはシニカルな批判などではなく、2020年の東京の貧しさがカットされずに残された映像なのではないか、と思った。いまの中学生や高校生のなかから、そんな映像を撮る若者たちが出てきてほしい。
『オリンピア52についての新しい視点』は11月にメゾンエルメスでの上映が予定されているそうだ。
そして閉会式。例年より比較的、見た作品、印象に残った作品が多く受賞作に選ばれていた。
クロージング作品『アラン島の小舟』。ロバート・フラハティについてのドキュメンタリーで、いろいろ知らなかったことを知る機会にはなったが、あまり焦点の絞り切れていないテーマとバランス感覚に物足りなさを感じる。言ってみれば、『オリンピア52についての新しい視点』にクリス・マルケルの息吹が息づいていたような意味では、この作品にフラハティの魂が継承されているとは言い難い。「なんかちょっと今日の視点では問題のあることもありますけど、一方ではすごい人でもありますよ」、みたいなものの言い方で、フラハティの作品そのもの以上に映画に人を引きつける力が生まれるとはとても思えない。
最後の飲み屋情報。でも次の山形国際ドキュメンタリー映画祭ですごい予約が殺到したりしたらいやだから名前は教えない。某神戸の映画館の映写技師さんが予約した店にご一緒させていただくが、前に一回、料理人の友達がおごってやるからと連れてきてもらったことのある店。ここを予約したWさんの嗅覚は素晴らしい。確実に腹一杯になる量の宴会コース一人前¥2100(しかもそんなに腹減ってないということで、4人で2人前を取り分けるがそれでも十分)。クオリティ半端じゃなく高い。
『オトヲカル』の上映時(8mmフィルムで上映された)、かなり大きめのサイズ、遠目の投射距離で上映したにも関わらず、画面が充分明るかったという話を聞く。それはなぜかというと、3Dでの上映用にスクリーンに銀が入っていたからだと。DCPとか3Dとかの商業的なスタンダードのための設備が、副産物的に8mmのようなメディアの上映にプラスに働くことがあるという、なんかとてもいい話。
最後に香味庵で一杯だけ飲み、酒井監督に『うたうひと』受賞のお祝いを伝える。ほんと人ごとじゃなく嬉しい。オーディトリウム渋谷での上映も控えてますから、東京の方はぜひ駆けつけてください。
本日はグー・タオデイ。2011年の山形で見た人みんなに勧められた『オルグヤ、オルグヤ……』と『雨果の休暇』。狩猟民族として生きる術を断たれたエヴェンキ族の人々は、皆酒に溺れている。街の学校へ息子をやった母親、その息子の帰郷、民族の未来を考えてトナカイの放牧産業を計画する酋長の息子の姿などが描かれる。
特に改めて書くまでもなく、皆の勧めどおりおもしろい。アイデンティティが奪われた人々の凄惨な状況を見つめる視線に込められた偉大なるユーモア。そして酋長の息子が歌う歌や、口琴やハーモニカの音楽、そして母親の弟の描く絵画や詩。それらは彼らの先祖たちが奏でたものとは同じではないが、共通するモチーフを用いて失われた旋律や光景に再度息を吹き込む創造行為である。
そしてその2本の続編となる『最後のハンダハン』。もはやここまでくるとエヴェンキ族版「北の国から」みたいな感じになってくる。連作を通じて、彼らの居住地や山のキャンプは、観客が何度も繰り返しそこへ帰って生きたいような場所になる。
今作の主人公は、雨果少年の叔父にあたる人物で、部族の中でもハードコアなアルコホリックとして描かれていた人物。前二作でよく、酒ばかり飲んでないで働けと殴られたりしていた彼は、狩猟が禁じられた狩猟民族をおそった虚無感を象徴的に体現する人物だ。酒に溺れた部族を「サムライが腹を切るのと同じようなもの」だと形容する彼が、母親がインターネットで行ったお嫁さん募集キャンペーンを通じて、山を出て海南島のかなり可愛い奥さんの元で暮らすことになる。もはや山の中で姿すら見ることもできなくなった最大の獲物ハンダハン=ヘラジカと、狩猟の黄金期を夢に思い出しながら巨体を持て余してゴロゴロしている彼の姿が重なる。
まったくの余談だが、トナカイはいい。アイヌ語の名前が流通してるところも、シカの仲間で唯一オスメスともに角が生えるところもカッコイイ。オスの顎髭みたいな毛も、くるぶしあたりがフサフサしてるのも、オシャレだ。
サラ・ポーリー『物語る私たち』。自分の出生の秘密を探るセルフ・ドキュメンタリーだと聞いていたので食指が動かなかったが、これはおもしろい。むしろセルフ・ドキュメンタリーなどというより、『ローラ殺人事件』や『デジャヴ』のような、そしてジェイムズ・エルロイの未解決殺人事件についてのルポのような、死んだ女の肖像を巡る物語であり、死んだ女に恋をする探偵たちの物語なのだと言った方がいい。若き日の父や母をまったくの別人が演じている回想シーンや、ナレーションの基調をなす父親からの手紙(そしてそれに演出をほどこす娘の姿をわざわざ映すこと)などは単なるけれんなどではなく、死んだ女への愛によって彼女を再びスクリーンの上で生きさせるための方法である。エルロイが『クライム・ウェイヴ』の中で次のように書いたような意味で、サラ・ポーリーはダイアン・ポーリーという女をここで生み出している。「わたしの好奇心と物書きの才能が母の死によって形づくられたことはわかっていた。ずっと前からわかっていた。それは冷ややかに論じられ、偽りのうちに客観化されてきた。わたしはその重みを充分に理解した。自分には認知と敬意という借りがあることを悟った。血のつながりという以上の意味で、自分を生み出したのが母であることを悟った。わたしは母なのだと感じた」。
キム・ドンリョン、パク・ギョンテ『蜘蛛の地』。朝鮮戦争時の米軍相手の娼婦たちと、その娘にあたる女性の現在を描く。
ここでもやはり、歴史を演じ直すことが問題になっている。しかしその方法がまったく納得いかない。かつて娼婦だった女たちの現在を描く前半部は、カメラに向かってインタビューを行うのでは聞き取れない言葉を聞くために、日常生活の姿を撮影しながらそこに手紙調のナレーションを重ねていっているのだろうか、それにしてはナレーションはやけに叙情的に過ぎるし、映像との重ね合わせがうまく機能していない、などと多少好意的に解釈しようと試みたが、その娘が母親の過去の痕跡をたどる後半部にいたって我慢も限界に達する。映像と言葉は、有機的に連結することも、衝突しあって異質なものを生み出すこともなく、ただ作家の都合のいいように貼り合わされているだけ。女たちを苦しめたものを「亡霊」と呼んでみるのも別にいいだろう。だがその「亡霊」は彼女たちひとりひとりがそれぞれに呼び出すべきものであって、作家の方が押しつけた「亡霊」を具現化するために彼女たちを利用するなんて卑劣極まりない。本気で腹が立った。
あまりにムカついたのでここで飲み屋情報。駅前のキャバクラが立ち並ぶあたりにあるバル「DonDonTei」は見た目はチャラいが、スパークリングワインがグラスで¥300で、質もわるくない。食い物はそんなに頼まなかったが、どれも手がこんでてうまいとのことだった。
ズーン ・モン・ トゥー『ブアさんのゴザ』 。老婆の持つゴザとヴェトナム戦争との見えない関係、そして彼女を取り巻く村の人々の生活を描く。
ブアさんがゴザを洗うと発作が起こる前兆だと近所の人は言うのだが、実際にはブアさんの発作は映画の中で起きない(上映後のQ&Aで監督は、撮影を始めた頃からブアさんの発作の症状が治っていったと言っていた)。ただ、それは別に映画にとって悪いことというわけではない。風が吹くと桶屋が儲かる的な、必ずしもくっきりとしたつながりが見えるわけではない原因と結果、兆候と出来事。むしろゴザとブアさんの病気の関連性が直接見えないからこそ、婚外子の多さや小さな村の住民たちがなぜこんなに仲がいいのかといったようなことと、ヴェトナム戦争とのかすかな関係について、自由に思いをはせることができるような気がする。
ブアさんは戦争当時、傀儡政権の兵士を解放軍に寝返らせるための工作を「色仕掛け」でしていたと語り、ちょっと「え?」と思うのだが、その後でチラッと出てくる彼女の娘さんを見ると「ああ確かに寝返っちゃうかもな」と思った。
エラ・プリーセ、ヌ・ヴァとトゥノル・ロ村の人々による『何があったのか、知りたい(知ってほしい)』。クメール・ルージュの歴史について住民が映画を製作するという、これもまた歴史と演じることについての作品。
だが『なみのこえ』や『殺人という行為』ほどには、演じるという手法自体の存在をあまり感じない映画だった。『殺人という行為』もこの『何があったのか、知りたい(知ってほしい)』も劇中で作られる映画そのものがどのようなかたちで完成されたのかは明らかにされない。だからこれらの作品は、どこか劇中劇のメイキング映像のようなものとしてある。監督名に「トゥノル・ロ村の人々」とクレジットしてしまうような、「みんなでつくったんですよ」といういかにも人道的な選択を批判する気は別にないが、そのことによって結局ここでは語り尽くされることがない劇中劇自体を、いったい誰がつくり誰が責任を負うのかという問題が消えてなくなるわけではない。だから酒井濱口両監督の、語るという行為自体にはあったが映像として記録されたものからは消えてしまうようなエモーションを、なんらかのトリックと映画の嘘(「おと」から「こえ」、そして「うた」へというフィクション化のプロセス)を使ってでも取り戻そう、そしてその嘘についての責任はおれたちがとる、というスタンスの方がはるかに倫理的だと感じるのだ。
しかしそんなことよりも、なんでトゥノル・ロ村の人はこんなに整った顔立ちの人が多いのかとびっくりする。ブサイクな子供がひとりもいない。これはかわいい子供だけを選んで撮影したというレベルではない。美男美女の名産地だったりするんだろうか。
ランチを食う場所がないという声をよく聞くのでグルメ情報も書いておこう。基本的にメシに困ったら、麺類にしとけば間違いない。よほどのことがなければ、どこで食ってもうまい。でもそれだけじゃあまりにそっけないので、どうしてもご当地ラーメンみたいなものが食べたければ「龍上海」に行けばいい。日曜の昼時なのでけっこう混んでいた。
とくにきちんとした予定を立てるでもなく、日々小耳に挟んだ情報と思いつきだけで映画を見ていると、クリス・マルケルを見にいくのを忘れる。ということで空いた時間で『空気の底は赤い』の前半だけを見る。
ユッカ・カルッカイネン、J-P・パッシ『パンク・シンドローム』。フィンランドの知的障碍者パンクバンドのドキュメンタリー。ありがちな音楽もの、ありがちな障害者ものなんじゃないかと高をくくっていたが、ナメすぎだった。こいつらは本物のパンクだった。
まず、ヴォーカルの書く詩、それのメロディへの消化の仕方、そして身体をずっと前後に揺らし続ける歌唱スタイル(歌ってないときも揺れてるんだけど)がとにかくめちゃくちゃかっこいい。とりわけすばらしいのは、(おそらくグループホームの決まりで定期的に受けなければいけない)フットケアをヴォーカルがさぼろうとするのを発端としてバンドメンバーが喧嘩を始める場面で歌う曲だ。
"なんでフットケアの施術士なんて職業が存在するのか意味わかんねえ
おれの足の手入れにまで口出しするな"
家に帰ると、両親と弟が朝からの上映だった『うたうひと』を見てきたと言う。「おもしぇがったわ」と言われたので「んだべ」と答える。
ジョシュア・オッペンハイマー『殺人という行為』。朝からけっこう混んでいる。インドネシアで1965年のクーデター後に起こった共産主義者の大量殺戮を、実際にそこで殺人を行っていた人物を集めて映画化しようとするプロセスを追う。
まずあらすじを読むとどうしてもリティー・パニュの『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』を思い浮かべてしまうが、見てみると全然違うものだとわかる。ものすごく乱暴に言ってしまえば、登場人物たちの「キャラクター」によっておもしろくは見れる。だが"Act of killing"とはいったいなんなのかを、演じ直すことを通じて理解することがこの作品の狙いなのだとすれば、やはりこれは『S21』に遠く及ばないと言うほかない。むしろ、ひとりの人物が選挙に出る場面で、「インドネシアでは選挙のたびにワイロがばらまかれるし、集会にどれだけ人が集まってもそいつらはみんな金をもらって、仕事のつもりで集まってる。舞台の上に上がる人々も幸せそうな顔をしているが、安っぽいソープオペラの登場人物を演じているのと変わらない」と言うが、この言葉の方がインドネシアの歴史における"Act of killing"を的確に言い当てている気がした。映画館のダフ屋をやっていたチンピラが、MGMやパラマウントの映画から「クールな殺し方」を学び、西部劇や犯罪映画の出来の悪いパロディとしての共産主義者虐殺を作り上げること。その当事者はその過去を隠したりなかったことにしたりはせず(新聞社で働いていたひとりの人物を例外として)、むしろ誇らしげに語る。この作品にかなり強い疑念を覚えずにいられないのは、彼らの語る行為の仕方、彼らの語り口を、誇らしげで自慢気なものから罪悪感と恥の意識に充ちたものへと変えることが、作品の到達点におかれているようにどうしても見えてしまうからだ。この映画のもっとも主要な登場人物は、映画のかなりはじめの方で、「別に楽しくてやってたわけじゃない。歌とダンス、酒とタバコとマリファナと、ほんの少しのエクスタシーでハイになりながらやっていた」と語り、実に見事なチャチャチャのステップを踏んでみせる。その同じ人物が映画の最後、まったく同じ場所で今度は、耐えきれない自責の念と罪悪感から吐き気すら覚えながら「ほんとはこんなことはしたくなかった」とつぶやくとき、まるで映画のはじめには隠されていた「真実」のようなものが暴かれた、という感じに描かれているように見えてしまう。だが、彼のチャチャチャのステップよりもわき起こる吐き気の方がより「真実」であり、より「リアル」であるなどと断定する権利が、いったい誰にあるというのだ?
続いてアヴィ・モグラビ『庭園に入れば』。手法としては基本的に近年の他のモグラビ作品でも用いられている、小さなカメラのフィックスショットに向かってモグラビが話すというやり方がベースとなってはいるが、アリ・アルアズハリという共作者を迎えた今作ではそこに多大な豊かさが導入されているように見えた。単に被写体としての彼の動きや言葉のおもしろさがあるというだけではなく、彼の言葉を呼び水として引き出されるモグラビ家の歴史(なんとイタリア人だった!)、彼がやたらと声をかけるせいで登場人物のひとりとなってしまう第二のカメラのカメラマン・フィリップ、そして彼の娘のヤスミン、そうした多様な事柄がフレームの中に呼び出されていく。そうしたことが、テレビの画面の中の「アラブの春」のニュース映像とも、ほんのかすかなつながりを持っているような気がした。
酒井耕、濱口竜介『なみのこえ』。この作品についてはまた別の場所で詳しく書く機会もあるだろうし、というかそもそも東京帰ってからも見れるのにわざわざ山形で見なくてもとも一瞬思ったが、こんだけでかいスクリーンで見れることもそうそうないだろうとやっぱり見ることにした。で、見て正解だった。会場のけっこうな人数の観客が、長年連れ添った夫婦の軽妙なやりとりで湧き、がんこな漁師の親子の「ちがうず」「んねず、ちがうず」「絶対んだず」という応酬で大爆笑する。こうした体験を郷里で経験すること、それも郷里からさほど遠くはない場所の人々を描いた映画で経験するのは、格別のものだった。
それにしても、『なみのおと』もそうだが、長年連れ添った夫婦ものの奥さんがいずれも素晴らしい。こんな嫁をもらいたいもんだ。
毎回このシーズンに山形にやってくると必ず風邪をひくので、今回は防寒に気を使ってみたら、暑い。10月だというのに半袖一枚の暑さはちょっと経験したことがない。関係ないが、実家に泊まったらくしゃみが止まらない。実家アレルギー。
映画祭の直前まで、酒井濱口の東北記録映画三部作やアルフォンソ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』(未見だが)の主観ショット(?)について考えなければいけない機会があり、そうした考え方を引きずったままドキュメンタリー映画祭に突入することになった。『うたうひと』や松林要樹『祭の馬』のような最近の特定のドキュメンタリー映画が、いわゆる劇映画よりもずっと大きなフィクションの力を駆動させているように思えること、またフィクションにおける観客の「リアリティ」を増強するためのテクニックが、どこか自然さとは別の方へ向かおうとしているかもしれないこと、そんなことを考えながら、数多くのいわゆる「ドキュメンタリー映画」を見ることになる。
一本目はイグナシオ・アグエロ『サンティアゴの扉』。監督の家を訪れた様々な人々の家へ、今度は監督とカメラが訪ねていって撮影する。そこにチリの歴史、監督一家の家族史がほとんど脈絡もなく介入するかたちで構成されている。
これは映画自体に対する評価というより、上に書いたようなことを考えていたせいで完全にものの見方がゆがんでるなという話なのだが、監督が家のなかを撮影しているときに決まって図ったようなタイミングでドアベルがなるな、とかそんなことばかり考えてしまう。なので、なぜ訪ねていった人々の家は地図上で位置関係が示されるのに、実際のその場所への距離感がまったく描かれないのはなぜか、とかそういうことがうまく消化できないまま見終わる。1945年に結婚した両親の写真で、お母さんがちょっとだけイングリッド・バーグマンに似てる、とかそんなことばかり印象に残る。
時間があいたので、霞城公園のとこの古本屋でジャック・フィニィの『クイーン・メリー号襲撃』とコリン・ウィルソンの『宇宙ヴァンパイアー』を100円で買ってちょっとほくほくする。
続いてノ・ウンジ、コ・ユジョン『咲きこぼれる夏』。HIV陽性者の男性カップルの2年間の同棲生活を追う。
よくできた青春映画。これをラブストーリーではなく、青春映画と呼びたいのは、彼らの間に愛があるのかどうかという問題よりも、彼らがともに過ごす時間、それもやがて終わりを告げることがわかりながら過ごす時間の切り取り方が清々しかったから。特に21歳で男娼をしていてHIVに感染した方の男性が、スクリーンの上ではすごくいい俳優だった。かつて様々な映画やドラマで描かれたような男娼やHIV感染者といったマイノリティの表象をごった煮にしたような人生をナイーヴに生きる人物が、ふと「善い人生を生きるってどういうことなんだろうか」とか呟いたりするのはなかなかよかった。