「外国人である」ことと、「外国人になる」ことは異なります。人は、外国に来たからと言って無条件に「外国人になる」ことができるわけではありません。そこには何が必要でしょうか? たとえばある人は「異なった言葉や習慣、文化的背景を持つ人々の足並みに自分を合わせること」が必要だと言い、またある人は「そういった人々に自分をぶつけること」が必要だと言います。たぶん、そのどちらも正しいのでしょう。問題は、状況に対するひとつの態度を常に生み出すというアクション/リアクションなのだと思います。
私たちは、そうした「外国人になる」という経験をした多くの先人たちに羨望のまなざしを送ってきました。なぜならそうした多くの人々はその経験を通過してからもなお、自身の「母国」においてさえ「外国人になる」というスタンスを保ち続けているように感じられるからです。無為に属することのできる安定した風土の中に閉じこもって満足するのではなく、今いる場所を常に外部として見つめることから自らの態度を生み出そうとする人々ーー無論、母国に留まり続けながら「外国人」たる態度を生み出さんとしている果敢な人々も含めーー、私たちはそうした世界中の「外国人」に憧れます。
本ブログでは、様々な幸運や偶然や助力のもとにこの秋からパリでの生活を送ることになった、誰でもない3人の「外国人見習い」によるレポートをお送りさせて頂きます。憧れだけではどうにもならない、という自戒を含めて、広く開かれた記事をお送りできれば幸いです。
カンヌから帰ってからの2週間ほど、パリのいくつかの上映施設で、「ある視点」、監督週間、批評家週間の諸作が、いくつかの上映施設で特別上映されていた。その中で、カンヌでは見ることのできなかった作品をいくつか見ることができた。
カンヌ滞在最終日。目覚めは9時半。連日の疲れからか、完全に寝坊。荷造りを済ませ、最後の上映へと向かう。毎朝お世話になったホテルのビュッフェへ向かうも終了時間ギリギリで、まともにパンもベーコンも残っていない有様。ま、今日はどうせ1本しか見る時間がないのだから軽くでいいかと思いつつ、ちょっと硬めで噛みごたえのある、お気に入りのクロワッサンを食べ納められなかったのは残念無念。
会期も終了に近づくと、上映数自体が激減する。マーケットの上映を加えればそれなりの数があるけれども、そちらにはプレスパスでは当然のことながらなかなか入れてもらえない。その反面、賞の発表が近づいていることもあって、プレスルーム近辺に集まる人々の数はどんどん増えているみたいだ。星取りが掲載されている「スクリーン」や「フィルム・フランセ」の日報は、昨日までだったら夕方近くでも余っていたのに、この日は朝10時過ぎには全滅である。
18日最後の一本は、園子温『恋の罪』。監督週間会場の熱気は非常に高い。現在、国際的な関心を最も寄せられている日本人映画監督の一人であることは間違いないし、その強烈なスタイルを国内の興行に関しても自身の武器としてポジティヴに活用できるという意味においては、非常に「巧い」作家なのだと正直に思う。
今日も監督週間からスタート。Karim Ainouz『O abismo prateado』。夫から突きつけられた突然の別れと失踪。数日後の夜、思い立って飛行機で彼を追うことを決めるものの、その日の飛行機はすでに発ってしまった。それから彼女が過ごす夜明けまでの時間を追う。これまで見た監督週間の作品がどんどん内側にのめり込んでいくものが多かっただけに、街を彷徨って人や風景に遭遇していく姿は悪くない。でも、どうしても監督週間の中で相対的に考えて面白いという感は拭いきれないんだよね…。
朝一はトリアー新作を、と考えていたけれど、予定を変更してジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ『Le Gamin au vélo』へ。正直な所まったく期待していなかったが、本当に素晴らしい! 個人的にはダルデンヌ兄弟の最高傑作ではないかとすら思う。方法論はこれまでと何も変わっていない、けれどもそこに投入された今作の主人公である父親に捨てられた少年と、そしてセシル・ド・フランス(『ヒアアフター』に負けず劣らず素晴らしい!)演じる少年の保護者を請け負う美容師との、いくつものアクション-リアクションが、『野生の少年』と『大人は判ってくれない』のちょうど中間に位置するかのごときトリュフォー的な映画の喜びを「ダルデンヌ・スタイル」から抽出することに成功している。
今日の一本目は、楽しみにしていたテシネの新作『Impardonnable』に向かう。予想通りのすごい人。でもテシネが監督週間で上映されることへの違和感は拭えない。ノミネートしている他の監督と比べると、テシネはあまりにも巨匠過ぎるからだ。次回作を準備中の作家と不動産業を営む初老の女性の出会い、その後の展開は、春夏秋冬、大雑把な時間経過が示されるだけで、事は私たちを置き去りにして知らない間に進んでいる。『証言者たち』以降、個人的にテシネの作品はかなり変わったと思っていて、70年代、80年代の重さ、暗さ、厳しさを乗り越えて、なんとなく軽さを獲得したように見える。『証言者たち』で、テシネはかつての映画の登場人物にもう一度生き直させていた。
2日目、クロワッサン×2、スクランブルエッグ、ベーコン、ヨーグルト、それからコーヒー。ホテルのビュッフェ形式の朝食をたっぷりと食べてから、10時15分発のシャトルバスに乗り込む。東京の映画祭でも同じことだし、そもそも当然のことだけれども、ひとつの映画祭でなるべくたくさん映画を見ようとすると、適切な時間に適切な量の昼食や夕食を取る時間を捻出するのは至難の業だ。朝早い時間か、夜遅い時間にしかまともに食事を取れない。本日のスケジュールも例に漏れず、合間にのんびり食事を取っている余裕はない。